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景観・まちづくり新聞
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連載コラム 高橋寛治が語るまちづくり (5)


「わらじぬぎ」

会津の「大内宿」は日本の最も美しい山村である。会津若松と日光を繋ぐ会津西街道の宿場町で昔は参勤交代が通過し、街道に面して茅葺屋根の大きな民家が続いている。国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されている集落では、入口でしばらく入ってゆくことを躊躇したほどの美しさであった。
  宿場の中ほどに復元された本陣「下郷町町並み展示館」がある。この展示館の暗い片隅に置かれている相沢韶男さん(武蔵野美術大学教授)の手紙の中にひかれるものがあった。 そこには次のように書かれていた「私がこの村に最初に来たのは、昭和42年9月末のことでした。私の郷里の水戸の藁屋根を、この大内の藁屋根職人(会津茅手)がふいていたと聞いて訪ねてきたのです。その時、泊めてもらったのが浅沼一さんの家(山形屋)で、以来、私はずっとこの家を「わらじぬぎ」と勝手に決めこんで世話になり続けてきました。いつ来ても変わらぬ気持ちで、私を迎えてくれたおかげで、私は村の生活記録をとり続けることができました。
  屋根屋の出稼ぎの話を一晩聞いて、帰ろうとしていた私に、一さんが言った言葉を、私は今でもはっきり覚えています。『昨晩も語ったことだが、この土地は雪が多くて、冬の稼ぎがなかったもんだから、わしらも茅手として関東に出稼ぎに行ったわけだ。しかし、なにも好き好んで半年も家を留守にしたわけではなかっただ。あんたのように、あちこち世間を歩いておれば、どっかによい冬の稼ぎに出っかすこともあるだろう。そん時は教えてもらえねえもんだべか。』草屋根の宿場保存をかんがえるようのなったのはこの時からでした。村の人に保存を訴える一方でわたしは国内ばかりでなく、国の外に生きる人々の暮らしぶりもみてきました。飢えて母親の腕の中で子供が死んでいくところがあるかと思うと、飽食肥満の末に痩せ薬を飲んでいる人々に出会いました。 世界中の人々が、自分達の古くから受け継いで来た生活と、外部から入って来た新しいものとの間に挟まれて悩んでいました。流行するものを一度追いかけた人々は、常に流行を追いかけなくてはならなくなっていました。
私はこの村の将来に、夢を描いています。この村を訪れた人に『進歩とは何か』を問いかけるような村になって欲しいと思っています。現在の我々の生活は、祖先の辛苦によって築かれてきました。どんなに新しがっても我々は過去を引きずって歩いています。過去を見つめ、足元の現在を考えることが、今、必要なのではないでしょうか。
やっと宿場保存が軌道につきました。しかし、やり方を間違えると、村の人を古いものの中にとじ込めてしまうことになりかねません。   
  これから解決しなければならない問題が山積しています。問題の根幹になっているのは、村という共同社会が崩壊しかかっていることにあります。かつて村が苦しかった時代に、仲良く肩を寄せ合うように助け合った過去の人たちの生き方を、村の人は思い起こすべきではないでしょうか。そしてこの共同社会の問題を、村の人はこれからもずっと考えつづけなければならないことなのです。」と結んでいる。
この時期に会津の山の中は、どのような「ムラ」として秋を迎えているでしょうか。景観と観光・震災のあり方を問いかけてみたいと思っている。
                               (次号に続く)

 

高橋寛治氏

(高は正しくは髙(はしごだか)と書きます)

プロフィール
高野山大学客員教授
埼玉大学教養学部
非常勤講師
元高野町副町長

 長野県飯田市産業経済部長として、
飯田市の活性化推進に活躍した後、
和歌山県高野町の副町長として、
高野町の活性化を推進した。

 

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